【まとめのまとめ】
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父親が先月●んだ
話すあてがないので、
ここに書き込ませてもらいます
お悔やみ申し上げます
ご冥福をお祈りします
南無
ありがとうございます。
とりあえずスペック
自分:23歳 看護師志望
父親:享年55歳 肝臓
がんだったようです
御愁傷様でございました
ハンカチ握りしめて見てるぞ
辛い
55は早いね
残念だ。
お悔やみ申し上げます。
皆さん、お気遣い
ありがとうございます。
ただでさえ文才がない上今も
動揺しておりますが、
どうかお付き合いください。
ゆっくりでいいよ
落ち着いてからでも大丈夫だよ!
ありがとうございます。
女?
女ですよ。
小学生の時から看護師になる
ことが夢だった。
可愛いナース服とか、
病気で不安なときも笑顔で
話しかけてくれる優しさとか、
全てが自分の憧れだったんだ。
だからもちろん、高校生に
なっていよいよ進路を。
というとき、
とある国立大学の看護学部に
行きたい、
と親に話したんだ。
私の努力を誰よりも認めて
くれていた親だ。
きっと応援していて
くれるだろうと思っていた。
だが、だめだった。
父親が反対してきたんだ。
ここからは看護師や看護師
志望の学生さんたちに大変
失礼な話になるから申し訳ない。
父親の意見は、
「せっかく良い私立に入る
ことが出来たのに、
何だってそんなに汚い仕事に
就こうとするんだ」
「看護師になるくらいなら
医者を目指せ」
というものだった。
そのときのことは今でも
鮮明に覚えている。
泣き叫びながら父親に殴り
掛かったっけw実の親に対して、
とんでもない暴言も吐いた。
結局私は父親に一発殴られた
後母親にたしなめられ、
自室に戻って泣きながら寝た。
このときから、私は父親を
嫌いはじめるようになった。
まず、父親と二人きりで外出
しようとしなかった。
母を交えて三人で出かける
ことはあっても、
父親と目は合わさない。
ツーショットなんてもってのほか。
そして、父親の前では
意地でも笑顔を見せなかった。
母親が冗談を言っても父親が
でっかいオナラをしても●ー
1グランプリが放送されていても。
なんというか、こうして
書き出してみるとなんて
つまらない意地だった
んだろうという感じがする。
だが、当時の私には私なりの
プライドがあった。
父が「看護師」という職業を
見直して私に謝ってくれるまでは、
なんとしてでも意地を張り
続けなければならないと
思い込んでいた。
しかし、結局父から私への
謝罪はないまま私は家を出た。
(ちなみに、私から父に謝る
気もさらさらなかった)
見事第一志望校に受かり、
看護学を修めるために
一人暮らしをすることになったのだ。
出発の日、見送りに来て
くれたのは母親と飼い犬だけ。
「ああ、私はこれで
お父さんと絶縁しちゃうんだろうな。
お父さん、
バイバイ」
とぼんやり考えながら
飛行機に乗った。
あれだけ父親に嫌がらせを
していたくせに、
このときだけは年甲斐も無く
ぽろっと泣いてしまった。
あの時、名前も知らない私を
慰めてくれた隣の席のご夫妻。
ありがとうございました。
「立派なナースになりなさいね」
と言ってくださったことは
今でも忘れません。
元気出せよ
お前らしくないぞ
ありがとうw
お茶入れてからまた来ます
ただいま
続きです
大学生活は本当に楽しかった。
ずっと学びたかった勉強を
教えてくれる先生がいる。
同じ志を持って高め合える
友達がいる。
看護師になった先輩の、
地元では決して
聞けなかっただろうリアルな
話を聞くことも出来た。
充実した毎日だったが、
私にはわだかまりがあった。
父のことだ。
この頃にはもう、私は自分の
行いを猛省していた。
あくまでも私のことを心配
してくれていた親に暴力を
奮い暴言を吐き、
長くにわたってつらくあたってきた。
実家に帰る機会はきちんと
あったので、
その度に
「今日こそはきちんと謝ろう」
と決心していたが、
いざ父の顔を見ると
どうしても素直に謝れないんだ。
たった一言「ごめんなさい」
というだけなのに。
そんな中、始めに書いた通り
父親が急逝した。
「急」といっても私が父の
病状を知らなかっただけな
んだけどね。
母曰く、余命宣告は受けて
おり父本人もそれを知っていたが、
「●●には絶対に知らせないでくれ」
と頼み込まれていたために
私に最後まで連絡
出来なかったということだった。
それを聞いて、大変な
身勝手だが、心が抉られる
ような気持ちがした。
やっぱり父は私のことを
恨んでいたんだ。
父も私とは絶縁した気でいたんだ。
と。
私は心のどこかで父に甘えて
いたクズだったんだと思う。
「実はとっくに許して
もらえているんじゃないか?」
とたかをくくっていたんだ。
私は父の葬儀のために
しばらく実家にいたが、
「親が●んだ」という実感は
なかなか沸かなかったな。
父が使っていたベッドは
やっぱり父のにおいがしたし、
父が作ってくれた犬用
ベッドも私が家を出たときの
ままそこにあった。
葬儀も淡々と取り行われ、
私は特に取り乱さなかった。
そしていよいよ、明日私が
帰るという日の就寝前に、
母親が私を呼び出した。
寝る前にリビングに呼び出さ
れて「ここに座りなさい」
なんて言われるもんだから、
父に代わって恨み言でも言わ
れるのだろうかと内心びく
びくして座っていた。
母が取り出したのは、
新品ピカピカ、きれいな
桜色のナースサンダルだった。
しかも、高級なやつ。
いつまでも俯いて黙っている母に
「これどうしたの?もしかして、
私に買ってくれたの?」
と聞くと、
「それはお父さんからの
プレゼントよ」
と返ってきた。
聞いた瞬間、大粒の涙が
目から零れたのが分かった。
嘘だ。
あんなに看護師になることに
反対していたじゃないか。
母は、その他にも次々と
色々な品物を出してきた。
万年筆、ちょっと高級な財布、
いかにも女子大生が
好みそうなデザインの可愛い腕時計、
飼い犬によく似た大きなぬいぐるみ…
これが誕生日プレゼント、
これがお雛祭り、これが入学
祝い、これがクリスマスプレゼント。
説明する母の声は震えていた。
こういう状況だと他人の
温かさって偉大だよね
いる人がいなくなるってのは
やっぱり悲しいよ
涙腺大崩壊
あれ?
このスマホなんで画面が濡れてんだ?
吹いても取れねーや、
赤ん坊だった時以来初めて、
私は泣き叫んだ。
後悔が波のように押し寄せてきた。
友達とケンカをすると、
いつも私の味方になってくれた。
勉強を教えてくれた。
色々な所に連れて行ってくれた。
美味しいものをたくさん食べ
させてくれた。
私が赤ん坊だった時、
どっちが私のおむつを
替えるかでお母さんとよく
ケンカしてたんだよね。
浪人してへとへとだった私の
体を気遣って、
勢いで電気毛布まで買ってきた父。
それを私は仇で返した。
本当は好きで好きで
たまらなかったのに。
また一緒にお出かけしたかった。
ママに内緒でキスしたかった。
「パパ大好き!」って、
年甲斐なく言いたかった。
でも、それは私のつまらない
意地のせいで二度と叶わない
ものになった。
帰省したときの、「ミオ。
昼飯食いに行こうや」という
あの無愛想な父の声が、
こんなにもかけがえのない
ものだったなんて、
父が生きていたことには
考えもしなかった。
長い間言えなかったけど、
お父さん、ごめんなさい。
無愛想だけど紳士な
お父さんのことだから、
あっちでは新しい友達と
仲良くやっていることでしょう。
次もしお父さんの元に
生まれ変わることが出来たら、
きっともっと素直で親思いな
子供になってみせます。
それと、ありがとう。
私はもうすぐ、念願かなって
看護師として働き始めます。
お父さんがくれたサンダルが
ボロボロになる日も近いかもw
勝手ですが、どうか見守って
いてください。
ここまで私の愚痴に
付き合って下さった皆さん、
父を悼んで下さった皆さん、
ありがとうございました。
私が言えたことでは到底
ありませんが、
皆さんはどうかご両親を
大切になさってください。
ミオ、いい歳こいて父親と
キスは異常だぞ
そうか?
人によっては当たり前と
思ってたんだけど、
西洋かぶれかなw
お父さんは全て分かってるよ
だって55年も生きたし親だしね
板挟みのお母さんも辛かった
んじゃないかな?
支え合って仲良くね
ありがとう
今の時期は心のうちを
吐き出すというのも大事なことだな
聞いてくれてありがとうね
泣いた
看護婦
(あえてこう書く)
は昔から3K職に挙げられてたし、
医者と看護師、患者の
関係というのを考えたときに
なれるなら医者になれという
意見は頷くところはある
後腐れがちょっとですむ位の
諭しにしておいたほうが
よかったとは思うが
子どもがなりたいものを
全力で否定する親もよくわからんな。
バンドマンとかならまだしも。
親の反対くらいでやめる奴は
どっちにしろ中途半端で
終わるからだよ
反対おしきって引くに
引けない状態になれば
簡単には逃げれないだろ
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